グスタフ・マーラーは何故、交響曲「大地の歌」を作曲したのでしょうか?

マーラー「大地の歌」を聴く上で、どうゆう経緯でマーラーはこの作品を作曲したのか・・このことは楽曲を知る上で非常に重要です。音楽評論家  岡  俊雄氏によるライナー(クレンペラー盤より)からすみませんが、以下一部引用させていただきます。

1907年、友人から「シナの笛」と題された詩集を送られたそうです。ハンス・ベートゲによる漢詩のドイツ語訳を集めたものでしたが、そのなかのいくつかの詩にひきつけられたマーラーは非常に大きな感銘をうけたとのことです。若い時から ” 死 ”についての意識にとらわれてきたマーラーにとって、東洋の詩の異国情緒ばかりではなく、その自然鑑賞のありかたや諦観に深く共感するところがあったのでしょう。青年時代に早くも人生の歓びと死と復活に対するマーラーの想念が作品の基調になっていることは、交響曲1番、2番(私としては3番も)にさえはっきりと反映している。マーラーが「シナの笛」から選んだテキストの配列を見ると現世の哀歓をうたいあげた末に、生への告別をもってむすんでいることはまったく意味深いものがあると書かれております。

第1楽章「現世の悲しみを歌う酒宴の歌」・・原詩は ” 李  太白 ” の詩。大地の悠久さにくらべ、生命の短くはかない思いに死の影を感じる、一転して酒をたたえ、琴をかきならすが、再び生は暗く、死もまた暗いと歌ってこの楽章を結ぶ。激情的なホルンの雄叫びがこの楽章を印象的にむすぶ。

第2楽章「秋の日に独りありて」・・原詩は ” 銭起 ” の詩。秋のわびしさと孤独の心を対比させ、魂の平安を求める切々の情を感動的にうたいあげる。

第3楽章「青春の歌」・・この作品の中で最も中国的、東洋的な曲調を色濃く感じます。友と酒を酌み交わしてながめる池の面に、全てのものが逆さにうつって見えるという風景に逆説的なユーモアがこめられているとのこと。尚、この楽章は過去にサントリーの洋酒のコマーシャルに使われ、当時話題になりました。

第4楽章「美しきものを歌う」・・原詩は ” 李  太白 ” の詩。太陽の下、野辺で花をつむ乙女たち、馬に乗った若者が寄ってきてその情景に魅せられる。この楽章は中国的、東洋的なものより、オーストリア山岳地方の風物を思わせるような、ロマンティックで明るく、全曲に大きなアクセントをもたらしていると書かれています。

第5楽章「春の日を酔いて暮らす」・・これも ” 李  太白 ” の原詩。詩人の魂に映じた酒に酔うものの夢のような心象風景。詩人の独白と鳥の啼声が幻想的に交差すると書かれております。

第6楽章「告別」・・” 孟  浩然 ”と ” 王  維 ” の詩によるもので、この交響曲全曲の半分を占める長大でかつ最も重要な楽章であると仰っております。作曲家マーラーは、スコアに ” 重々しく(Schwer)” と指定していて、ドラとハープを重ねた東洋風な音色の和音がこの楽章の印象を決定的なものとしており、曲の進行とともに曲想は深く沈静し、” 永遠に・・・” とむすぶ最後の一節のあとへ消え入るような余韻のなかに深い感動とともに全曲をむすぶ。とのことです。

私は来年には70歳を迎えるのですが、” 死 ” に対する意識は正直まだ感じることはありませんが、全編を通してこれらの ” 詩 ”を読むと、年齢的に共感するものがあります。この交響曲の紹介でよく使われる言い方で ” 締観 ”という表現があります。ネットで調べると、” 本質を明らかに見極めること” とか ” 俗世に対する欲望を断ち、超然とすること ” とあります。なんとなくですがわかるような気はします。 秋の夜長にこの交響曲にじっくり浸ってみてはどうでしょうか?