今、J.S.バッハ「マタイ受難曲」を聴くことの意味とは?

私は、キリスト教徒(クリスチャン)ではありませんが、かといって熱心な仏教徒でもありません。もちろんお通夜とかお葬式には参列します。仏教に関わるのはそれくらいです。日本に住んでいる殆どの方もそんな感じでしょうね。無神論者ではないと自分では思っていて、お正月、子供の七五三には神社にお参りします。これらが信仰とはいえないのでしょうが・・まあ、私の日常生活は”宗教”とはほど遠いものです。そんな私がJ.S.バッハ”マタイ受難曲”を知ったのは35年前のことでした。曲名自体は高校生の頃に知ったのですが、なんとなく” 重そうな音楽 ” かも・・そんなイメージから進んで聴きたいとは思いませんでした。バッハの音楽そのものは素敵で荘厳なメロディの曲もたくさんあったので、とにかく買ってみようと思い切って?購入しました。これがきっかけになって、”マタイ受難曲 ” が  ” マタイによる福音書 ”をベースによるもので、バッハ以前から存在したことなど・・中世において幾人の聖職者が役割を分担し、劇的な要素を加味しながら ”受難 ”のくだりを朗唱したのがそもそもの始まりだったとのことなど、聴き込むにつれていろいろな知識を得ることができました。

そもそも” 受難 ”とは、キリスト教において”神の子(神の地上に現れた姿)とされるイエスが、新しい福音を述べたが故に、ユダヤ教の体制派に疎んぜられ、十字架上で処刑された出来事をさすとのことです。(1958年、ミュンヘンで録音されたカール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団、合唱団、少年合唱団/テノールはヘフリガー、バスはディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ盤で解説されている磯山 雅氏のライナーより抜粋させていただきました)受難曲というだけあって、歌詞の内容的はやはり”重い”ものですが、想像していたものとは違い、美しいメロディに沿って唄われる箇所もあります。ただ、BGM的に聴くのはちょっと無理かなと思います。バッハのイエスに対する真摯な姿勢を正面から受け止めないといけないのではと思わせるものです。

話は脱線しますが、今ウクライナの皆さんは大変なご苦労をされております。報道によるとかなりの方々がお亡くなりになっているようです。日本にも千人を超えるウクライナの方々が避難されています。どうしてこんなことが起きてしまったのか?テレビの映像からはウクライナの方々の悲痛な言葉が頭から離れません。私がこのブログでロシアのウクライナ侵攻についてあれこれ意見を言っても仕方がありません。この ”マタイ受難曲 ” の中で私がひときわ感動を憶える曲があります。リヒター盤の3枚目のCDの中の75曲目 ”わが心よ、おのれを浄めよ ” は大袈裟ですが、宗教を超えて全人類に向かって呼びかけているように感じられます。ウクライナの人々に寄り添わないといけないよとバッハに言われているように感じるのです。” 音楽の力 ”とは、キリスト教徒でもない私にこうゆう想いを抱かせてくれる・・。そして、最後の曲(終結合唱)は、まさにこの侵攻によってお亡くなりになった多くの方々の”受難”を想う終曲にふさわしい内容のメロディー、歌詞です。

”マタイ受難曲”は「宗教音楽史の中の最高傑作」と紹介されています。あるいは、「全音楽史の中で比肩しうる作品はない」(磯山 雅氏による)など、この”マタイ”は特別の作品として数々賞賛されています。私が所有している”マタイ”は前述のカール・リヒター盤とニコラス・アーノンクール指揮/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス盤の2種類です。アーノンクール盤は2001年にハンブルグでデジタル録音されたものなので、音質的には大変優れています。しかしながら、1958年録音のリヒター盤のアマチュアとは思えない合唱団の迫力、各ソリストの歌唱の素晴らしさ(前述のディースカウ氏が歌う第75曲目)、指揮者カール・リヒター氏のバッハに対する畏敬の念というか、この曲に対する解釈の奥深さを感じます。ディースカウ氏の声が暖かいのです。興味がある方は一度お聴きになってみてはいかがですか?写真の中の左側のものは、リヒター盤で、右側がアーノンクール盤でジャケットも大変凝ったものです。

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